海軍高山流白兵抜刀術 金沢連絡所

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夏空に描く高山流の航跡 (聞き書き)

 

以下、終戦記念日に松原三世から高山流の小史を聞き、談話の大要をまとめたものです。 (主計長

生徒時代の高松宮殿下 (高松宮日記)

大正11年、江田島の海軍兵学校敷地内の皇族官舎での撮影と思われる

 

日本海軍八〇年の歴史の中で高山流白兵抜刀術の占める位置は大きなものではないが、その精神と矜持は連綿と今日まで続いております。

当流は御承知のとおり著名な流派でないものの、勇猛高士の抜刀術であり、則ち

横須賀砲術学校教頭兼研究部長、海軍大佐・高松宮宣仁親王殿下

全日本戦時武道指導官、海軍中将(相当官)・高山政吉

海軍少尉、舞鶴機関学校剣道教官・小山勇

海軍下士官、舞鶴海軍工廠剣道教員・千原義夫

等の階級と戦歴が命を的に国のため奮迅された事を拝承しております。

かつては流祖の高山を先頭に軍人と民間有志が国防の決戦武道として秋水を振って錬磨したことを偲び、宮殿下も親しく学ばれて高山の晩年まで同流発展に寄与された事を敗戦の夏から七四年を経て思うと感慨無量なるを禁じ得ない。

高山の回想によれば この日、流祖は責任をとって自決を決意するも上官藤崎大佐より「止めよ、海軍武道を守り、日本の再起する日に備えよ」と悟され、落人として九州に潜行したので危うく高山流の命脈は保たれたのである。

三世は毎年八月十五日がくると先祖墓地の草刈りに出掛け、あの日も大変暑かったと聞いているので汗を拭き乍ら戦火に倒れた多くの人々の鎮魂と高山流再興の日としている。

二世も千原氏も三世もそうであったように殊更誇大宣伝をして人集めしようとは考えず、現今の「俺がオレが」と言う顕示欲もなく静かに武の道を研鑽しておれば おのずから諸国修行の剣士が門戸を叩くであろうと年月を送っている。

もう高山流を体験した軍人も市民も鬼籍に入られた人が多く学んだ二世代も七〇代に達して真の高山流を語れる者が不在のようであるが、このスキに乗じて高山流を騙り講習料を掠めとる軽輩が出現し真諦なき巧言にあきれるばかりである。

武道には古人の尊い教えと犯すべからざる神性があって一朝一夕にできるものではなく三世代にわたり営々と築き上げた伝統の歴史があります。

たとえ小さな流派であっても一滴の血流と共に堅く守って後世に引き継ぐのが修行者の先師に対する報恩であると思っている。

 

令和元年終戦の日に